書名(邦名、原題名)

悪の起源(訳者:青田勝)
THE ORIGIN OF EVIL

事件名(戒名)

リアンダー・ヒル脅迫事件
ロージャー・プライアム脅迫事件および同氏殺害未遂事件

被害者名

リアンダー・ヒル(宝石商)
ロージャー・プライアム(宝石商)

凶器

犬の死骸および脅迫状
謎の小箱
ツナサラダ(致死量に満たない砒素入り)
数百のカエルの死体
鰐皮の札入れ
燃やされた本
役に立たなくなった株券や有価証券

死因

リアンダー・ヒル氏については、脅迫による恐怖の結果、心臓マヒで死亡

内容

第2次世界大戦が終り、冷戦が始まり、映画の時代が終り、テレビの時代が始まったハリウッドに、小説の題材を求めてエラリイが訪れた。テレビの台頭によってかつての栄華は失われたかに見えたハリウッドだったが、しかし、まだまだその魅惑は尽きていなかったため、エラリイはひそかに腰を落ち着けて小説を書こうとしていた。

ところが、そんなエラリイの隠れ家にローレル・ヒルと名乗る若い女性が現れた。彼女は、自分の父リアンダーが死んだ犬に殺されたとエラリイに語り、その犬を送って父を殺した犯人を捕まえてくれとエラリイに訴えた。犬の首輪には脅迫状がついていて、それが弱っていたリアンダー・ヒルの心臓に過負荷を与えたということらしい。興味はそそられたものの、エラリイはローレルの依頼を断ろうとした。ところが、リアンダー・ヒルの共同経営者ロージャー・プライアムの妻デリアが、やはりエラリイの元を訪れ、自分の夫もなにやら小箱を受け取り、それ以来何者かに恐怖しているのだ、とエラリイに告げた。

ほとんどデリアの魅力に負けた形で、エラリイはプライアム邸に足を運んだ。下半身の麻痺を伴う病気を患ったロージャーは、自分の身の回りのことはなんでも済ませることができるような特注の車椅子に座り、どうしても自分でできないことについては秘書のアルフレッド・ウォレスの手を借りていた。そんなロージャーであったが、まるで暴君のような気性だった。そして、確かに何者かによる脅迫を恐れていたのだ。エラリイは、続いてヒル邸に向い、リアンダーの寝室で脅迫状の写しを発見した。デリアの息子で“核爆発後の世界を生き抜くために野性に帰った男”クロウ・マクガワンとローレル、そしてエラリイはその脅迫状の内容に目を通した。奇妙な言葉遣いの脅迫状の送り主は、ロージャーとリアンダーが20年以上前に関係した人物のようであった。エラリイは、ロサンゼルス市警の協力を得て、彼らの過去を調べようとした。

そんなとき、ロージャーがプトマイン中毒で倒れるという事件が起こった。主治医のドクター・ヴォルータはあくまでも食中毒であると言い張ったのだが、ロス市警のキーツ警部補の調査によって、ツナサラダに砒素が混入されていたことが判明した。どうやら、脅迫者が本格的に活動を開始し始めたらしい。だが、ロージャーは頑として、過去の出来事を口にしようとはしなかったため、その脅迫者の身元は未だに不明のままだった。

そんなロージャーの努力を嘲笑うかのように、さまざまな、そして風変わりな趣向の脅迫が彼を襲い始めた。数百に及ぶカエルの死体が寝室にばらまかれ、鰐皮の財布が送られ、『鳥』というタイトルの本が暖炉で焼かれ、あまつさえ何の役にも立たない倒産会社の有価証券が山ほどロージャーの元に送られきたのだ。

この脅迫は、いったい何を意味しているのだろうか? そして、脅迫者はいったい何者なのか? エラリイの推理は、ロージャーの過去を探り、脅迫者を特定することができるのであろうか?

感想

『悪の起源』は、アメリカ西海岸はハリウッドでのエラリイの活躍を描くという、案外とオーソドックスな作品として仕上がっている。TV時代の幕開けや冷戦の開始、そして朝鮮戦争開戦など、当時の世相を反映した背景こそ有しているものの、本格推理小説としては、奇妙な文体の脅迫状や不思議な脅迫など、いくつもの謎がちりばめられているのを、探偵のエラリイが解き明かしていき、さらには事件の真相と真犯人を指摘する、という展開なのである意味新鮮味がないとも言える作品となっている。『ダブル・ダブル』もはさみ、さすがに『十日間の不思議』や『九尾の猫』のような実験的 or 冒険的な作品が続くことはなかった……かのように思える。ところが、事件の内容や展開そのものについては確かにオーソドックスであるが、本作は、実は作家クイーンにとっては、かなり実験的な部分を持ち合わせている。すなわち、作品への性描写の導入であり、さらには性的欲望を抱くエラリイという、これまで行われてきたエラリイという人間についての内面にさらに踏み込んだことである。

十日間の不思議』においても、ハワードとサリーの不倫について触れられてはいたが、それはあくまでも出来事としての不倫であって、それについての(直接的、間接的な)描写が行われたりはしなかったし、魅力的な女性であるサリーに対してエラリイが好意を抱くような描写はあっても、性的欲望を抱くようなシーンはまったく見られなかった。ところが、本作では、

彼女のブラウスの曲線。そして彼女の腰から下をかっきりと強く浮き出させているスカート。そしてコンパスの尖端のように、きちんと揃えられて、両膝の真ん中に置かれている、形のいい大きな両手などが気になって仕方がなかった(P.38)
のように、デリアの肉体的魅力に、エラリイは気もそぞろになってしまう。さらには、デリアにそれとなく迫られたときには、分別を振り回すことで辛うじてその誘惑に打ち勝ち、そのデリアが自分のことを珍しいディルドーだと感じていたことを思い知らされることによって、エラリイはようやくデリアに対する肉体的欲望から解放されるのである。ダシル・ハメットによる探偵エラリイ・クイーンの性生活に対する疑問について、ようやっと本作で解答が行われたと言えよう。もちろん、現代人の目からしてみればかわいらしいものネ、というような描写ではあるが、本作の他の部分にもセックスに関する描写がいくつも現れる。ロージャーの秘書ウォレスは、雇主の妻デリアと寝ていることをあけすけに話し、クロウはローレルに対して「セックスに狂える二人ってわけだな」(P.223)などという会話まで交わす。これまでのクイーンの作品では、ここまでの性描写はなかったし、逆にいえばこれまで性描写というのがほとんどなかったクイーンの作品において、突然本作から性描写が導入されたということになる。この辺り、人間を描くとなれば、やはり性的なところにまで踏み込まなければならないということを、ハードボイルドの隆盛を横目に見ていた作家クイーンが自覚したためかもしれない。そういう点を踏まえてからか、エラリイという人間だってHなこと考えたりするだろうし、好意やあるいは何らかの思惑からセックスをする人々もいるだろう、ということについて描かれているということは、やはり作風の大きな変化と言えよう。

さて、本格推理ものとして本作を見てみると、実は科学史に素養のある人ならば、脅迫の内容と登場人物の名前から、一発で真犯人を当てることができる、という難点があったりする。なんというか、真犯人の名前が露骨すぎるんでないかい、という気はする。ここら辺は、本格推理としての出来よりも、当時の世相、特に朝鮮戦争と原水爆時代を踏まえての、文明批評のような側面を打ち出したかったためかもしれない。すなわち、殺し合いを止めることもできず、あまつさえ地球全体を滅亡させるような爆弾を作った挙げ句に、自ら手を下すこともできずににらみ合い、代理戦争を起こすことでお茶を濁しているような人類が、本当に進化した存在と言えるのか?ということを打ち出さんとしたがために、わかる人なら簡単にわかってしまうような真犯人像を設定したということである。

よくよく考えてみると、真犯人自体、当時のアメリカ or ソ連のように、自ら手は下さずに利益を得ている存在だったりする。そして、エラリイの推理は、真犯人を指摘することはできたものの、ついに司直の手が真犯人に及ぶことはない。エラリイの推理は、悪の影を暴くことはできたものの、その悪そのものを正すことはできなかったのである。エラリイ自身が常々理性の重要性を口にしていることを鑑みれば、人間の理性は人間に潜む悪を指摘することはできるものの、それを矯めることはできない、という苦々しい現実認識を示したのが本作である、とも言えるかもしれない。

特記事項

彼はその死人がまだみずみずしい女盛りだった頃のことをよく知っていた(P.6)

ハリウッドのこと。エラリイがかつてハリウッドで活躍した顛末については、『悪魔の報酬』や『ハートの4』に詳しい。
なお、その頃から15年近く経っていたりするのだが……

彼の名が爆発的に世間に宣伝されて以来(P.10)

九尾の猫』の表面的な成功で、エラリイの名はこれまで以上に有名になってしまった。そのため、イングルウッドの国際空港を避けてバーバンクのロッキード飛行場に降り立つのを選んだのだが、報道陣は決して彼のことを見逃したりはしなかった。エラリイ自身は小説を書くためにハリウッドを訪れたのだが、新聞記者はそれを信じず、市長極秘の要請により数年来の懸念だった“ブラック・ダリア”事件の解決に当たるものと報道した

ハリウッドの服装

おかまいなしらしい。頭巾のついた毛皮の服を着て、エスキモー犬の轢く犬ぞりに乗って走り続けても、誰も気にしないらしい。
で、この時のエラリイは借家で寛いでいたため、ワイキキパンツに革のサンダルという軽装だった

エラリイ、着がえる

ローレル・ヒルの突然の訪問を受けたエラリイが、慌てて着たのが、スラックスに絹紬のシャツに葡萄酒色のコール天のジャケット。ネクタイこそ締めていないし、ボンド・ストリート仕立てだった頃から比べるとくだけているが、相変わらずオシャレである

ハリウッドの冗談

ハリウッドの人々は、とてつもない大規模な冗談をやってのけるらしい。エラリイ自身が知っている限りでも、浴室に競走馬が入っていたり、76人ものエキストラを使った二日間に渡る冗談があるとか

アラン・クォーターメイン

ライダー・ハガードの小説『一八八八年』の主人公。彼は、アイシャが燃え上がる焔の幕のかげで行ったストリップ・ティーズを目撃する特権が与えられていたのだが、なんとこの主人公は青年時代のエラリイの憧れの的だった!
〈感想〉のところでは真面目に書いたのだが、ここではこう言おう。「何が女嫌いでぃ。やーい、エラリイのむっつりすけべぇ」

ロージャー・プライアムの車椅子

事務所、書斎、寝室、浴室のすべてが組合わさったような、特製の車椅子で、背を低くして前を上げると、ベッドとなる。
片方の腕には小さな棚があり、起こすとテーブルとなる。その棚の下には、ナイフ、フォーク、ナプキンや、カクテルの道具、お酒の壜が収められた戸棚がついている。
もう片方の腕には、棚板に止められたタイプライターがあり、棚の下には、用紙やカーボン紙、鉛筆などの事務用品が収められている。
また、差し込み式の電話機が二つ――通常の外線と、ヒル邸への直通線――、および秘書のウォレスの部屋へのインターフォンが備えられている。
なお、車椅子の周囲には、棚が多数備えられており、雑誌や葉巻、眼鏡、歯ブラシなどを取り出しやすいように配置されている

エラリイ、柔道の腕を見せつける

デリアが見ている前で、ロージャーに嘲弄され、秘書のウォレスに挑発されたエラリイは、怒りに目が眩んでウォレスを投げ飛ばしてしまう。『悪魔の報酬』の頃には、真似事みたいだったのだが、大分修行を積んでいたようだ。
なお、このウォレスという男はかなりの力持ちで、エラリイの腕がしびれるほどの握力を有していた

かんしゃくを起こしてはいけない

教科書にある規則の第1条であり、クイーンパパの膝の上にいる頃から、エラリイはこれを教わってきた

イチロー・ソトワ

ヒル邸の召使。勤続16年。結構真面目な日本人名である。外輪一郎とでも書くのだろうか?

クロウ・マクガワン

デリアの息子で、ロージャーにとっては養子にあたる。エラリイよりも6インチほど背が高く(エラリイはだいたい6フィートである)、肩幅が不可能なほど広く、ウェストは信じられないほど極度に引き締まった美丈夫。もちろん、腕力もかなりあり、握手をしたエラリイは掌が砕けるような感じを受けた。
核戦争後の荒野に生きる備えと称して、とび色の腰布だけを身に付けて、樹上生活を送っている

クロウの住居

ケルリス・アグリフォリアという名のかしの木の一種に、クロウの住居がある。四方に壁があり、屋根は板葺きで、床もあり、張り出し部分にハシゴが備えられている。部屋の内部には生活必需品がびっしりと並び、電灯や電気暖炉、冷蔵庫、上下水道も完備

バーボン

エラリイの嫌いな酒。やっぱり好き嫌い多いな、エラリイ

ロサンゼルス市警

リアンダー・ヒル殺人?事件調査のため、エラリイはロサンゼルス市警に協力を依頼する。この頃には、『悪魔の報酬』でもらったバッチもご利益を失っているらしく、エラリイは渉外部の部長ローデッティ氏に礼儀正しく依頼を行った

キーツ

ハリウッド警察に勤務の警部補で、年齢は38〜40歳。スペルは、“Keats”。薄茶色の髪で、赤みがかった眉、澄んだ灰色の目をしている。手は大きく手入れが行き届いており、左手のくすり指に金色の指輪あり。顎はしっかりと張っている。どことなく冷淡な態度をしており、エラリイは利口な警官で、かなり厳しい男だ、と内心評した。癖は、禁煙のため、火を点けていないタバコをくわえること

デポジット・ロー?

この頃から、ロサンゼルスでは、缶詰めの空き缶は分別回収されていたらしい。エラリイは重要な証拠品であるツナ缶を、缶ゴミ入れから発見した

罵詈雑言対決、エラリイ vs. ヴォルータ医師

診察の結果を疑うエラリイに対して、ヴォルータ医師は“売名家”とののしった。一方、エラリイも負けてはいない。「あんたは〈白人ルンペン〉に扮したチャールズ・ロートンによく似ているってね」(P.114)と言い返す。

ロージャーの好物

刻んだタマネギ、ピーマン、セロリ、たくさんのマヨネーズ、新しいレモン半個の搾り汁、胡椒と塩少々、ウスターソース少量、粉末辛子を小さじ半杯、オレガノとタチジャコウソウの粉末を一つかみ加えたツナサラダ

第2の脅迫

ロージャーの不調の原因は食中毒ではなく、何者かがツナサラダに加えた砒素による砒素中毒であった。和歌山の毒物カレー事件でも、当初は食中毒扱いされており、食中毒と砒素中毒は見分けが付けにくいのであろう

第3の脅迫

ロージャーの部屋の至る所にばらまかれた、アマガエルや足の黄色いカエル、ガマガエル、そして食用ガエルなど、何百匹ものカエルの死骸。
主にばらまかれたのは、スプリング・ピーパー、学名ハイラ・レギラと称するアマガエルで、ロサンゼルス近辺の低湿地によく見られる種類

恐怖

時代を越えた暴君であり、20世紀には巨大なキノコの形で現れる……無論、核兵器のことである

エラリイの倫理観

デリアに迫られたエラリイは、デリアが寂しがっていること、亭主のロージャーの下半身が不随であること、そしてデリアが自堕落女ではなく、自分が卑劣漢ではない、という理由で彼女を袖にした。“据え膳喰わぬは男の恥”のようなことはしないところから、なんだかんだ言いながらもストイックで結構健全な倫理観を有しているようである

ロージャーとリアンダーの謎

合衆国でも最大級の宝石の在庫を誇るヒル&プライアム商会の創始者、リアンダー・ヒルとロージャー・プライアムは、1927年以前の過去を有していない、という謎があった

アルフレッド・ウォレスの謎

ロージャーの秘書アルフレッドも謎持ちの一人である。彼は1年半ほど前、ラスベガスで記憶喪失者として発見された。診察者はジェームズ・V・カットビルで、住所はラスベガス市北5番街515番地。
扁桃腺とアデノイドが切りとられており、歯の充填は行われていたものの大きな治療はなく、それ以外の手がかりはまったくなかった。
ラスベガスの91号線道路沿いにある711番ホテルで一月ほど小使いをした後、ロサンゼルスにやってきたウォレスは、南ホープ街にあるYMCAのダウンタウン支部に寝泊まりしながら、働き口を捜し、やがてロージャーの秘書となった

第4の脅迫

男物の鰐皮の札入れ。濃緑色に染めた上等なものであり、金の縁取りが施されていた。メーカーは、ハリウッドにあるレザーランド会社

朝鮮戦争勃発!

事件捜査中、朝鮮戦争が起こり、カリフォルニアも大騒ぎになった。
そんな中、ローレルはエラリイに、こう語る。
世の中がこんな大騒ぎになったら、あたしたちの事件などばかばかしい下らないことのように思われてきたわ。ある意味からいえば、本当はそうかも知れないわね。でも決してばかばかしくも、くだらなくもないと思うのよ。侵略戦争っていうものはやっぱり殺人じゃないの。それをただ甘んじて受けている法はないでしょう?
あらゆる戦線で戦わなければうそよ、とるにたらない一個人からして戦わなければだめよ。さもないと叩きつぶされてしまうわ(P.234)
これは、戦争そのものに対する言葉というよりも、『シャム双生児の秘密』のクライマックスでエラリイが語った言葉のリフレインであろう

しかし本は読むためにあるんですがね(P.243)

素晴らしい装幀の蔵書を数多く有しているにもかかわらず、それらを一度も読んだことがないロージャーに対するエラリイの言葉。本を磨くのに精を出していただけではないらしい

第5の脅迫

紀元前5世紀(エラリイが学校で習ったギリシャ古典の記憶に間違いがなければ、紀元前414年)に、当時最大の諷刺劇作家アリストファネスの書いた戯曲『鳥』が、切り刻まれて焼かれた。

タップダンス

クイーンパパさえ知らない、エラリイのとっておきの隠し芸。リチャード警視が知らないということは、おそらく大学時代に覚えたのであろう。
なお、エラリイ・クイーンを紹介する記事で、タップを得意にしているという記事は見たことがない。やりぃ、新(再)発見!……と、言いつつ、再読するまで手前もこんなのは覚えていなかった(^^;)

第6の脅迫

倒産してしまった会社の株券。このような無価値な株券のことを、証券業界では“キャッツ&ドッグズ”と呼ぶ

ゴムホースで拷問だ(P.354)

真犯人に対して、キーツ警部補が言った言葉。おいおい、警察官がそんなこと言っていいのか(^^;)?

備考

本稿は、早川文庫版(昭和53年12月15日二刷)を参照にした

目次へ

HOME